問いの本棚 vol.01

問いの本棚 vol.01

問いの本棚とは

「問いの本棚」は、本や雑誌、漫画、音楽など、触れたあとにも問いが残ったものを、その問いとともに紹介する企画です。なぜその問いが残ったのかをたどりながら、いまの自分と世界について考えます。

『川』と『河』

遠藤周作『深い河』

選・文 渡邊将志

川が好きだ。

生まれた土地にも、いま住んでいる土地にもそれぞれ好きな川があり、帰省した際や日々のジョギングのコースとなっている。
出かけた先で川を見つければ川沿いを散歩し、往く人々を眺めて過ごす。
深夜、絶望的な気分で真っ黒な川をみるのもいい。

いったい川とはなんだろう。

たとえば「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」という『方丈記』の冒頭のような、世の中の無常観についての比喩だったり、美空ひばりの「川の流れのように」のような人生や時間の流れ、また三途の川などに見られる境界の象徴としての役割もある。

『深い河』は遠藤周作が70歳の頃に書いた最後の書き下ろし長編小説だ。

深い喪失や虚無を抱えた日本人旅行者たちが、インドのガンジス川へのツアーで出会い、川のほとりで自分なりの救いや意味を見つけていく物語で、そこには生涯「日本人のキリスト教」を問い続けた遠藤周作の集大成としての宗教観、死生観が投影されている。

作中で『深い河』はガンジス川に重ねられていくが、ここで使われるのは「川」ではなく「河」である。
日本語において、「川」と「河」に厳密な大小の区別があるわけではないようだが、それでも私には、「川」は一人ひとりの生活や感情に近く、「河」はそれらを飲み込みながら流れる社会や世界そのもののように見える。

作中の登場人物 大津が好きだというマハートマ・ガンジーの次の言葉がある。

「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」

遠藤周作の宗教観の集大成としての「河」はここにある。一神教的な西洋的価値観、汎神論的な日本的価値観、それにヒンドゥーの万物に神を見る価値観。それぞれ別の水源から生まれたはずのものたちが、ガンジスという一つの深き河に流れ込み、もはや区別のつかない一つの水になる。一神教か汎神論か、唯一の神か多くの神か。そういう問い自体が、河のほとりでは意味を失っていく。

もう一方に、登場人物のひとり美津子の言葉がある。

「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」

宗教も、罪も、悲しみも、一人ひとりが抱えてきた重さも、あらゆる人間の業を分け隔てなく飲み込みながら流れ続ける、生と死を超えた「大いなるもの」の象徴としての「河」が、ここにある。

川は、激流にも清流にも濁流にもなる。私たちの心に合わせて自在に姿を変え、抗えない個人の運命から大きな歴史まで、人によってさまざまなものを映し出す。川とはいったいなんだろうという問いに簡単にその実体は見せてはくれない。

ただ「川」と「河」、このふたつのものさしを持つことは、今の世界にはとても重要なことではないだろうか。
一人ひとりがそれぞれの「川」を持ちながら、それが交わり大きな流れをもつ「河」にも自分は存在するということ。
一人の個人的な物語を失わせ命を奪う「せんそう」を想像することと、政治、歴史的な立場から過ちとしての「戦争」を学ぶこと。
言葉遊びのような日本語の使い方でそのような揺れを行き来できるのは、問いを立てたり、読書をして何か考える上でとても有効なことだ。

私が「川」を好きなのは、その変幻自在な形のなさにある。個人的な辛さや孤独から、俯瞰した人生、あの世とこの世などの幽玄なイメージまで色々なメタファーを受け入れてくれるその懐の広さ。しかしこの本を読むまで「河」という視座はなかった。そしてたくさんの「河」が名前も境目も失って流れ込んだ先が「海」。
そこまで行くと、もうそれは宇宙だ。

PROFILE

渡邊将志

アートディレクター・グラフィックデザイナー。W DESIGN主宰。2026年、問いを日常にひらくための活動「TURN ON INQUIRY」を始動。同年12月、雑誌『TOI Magazine』Issue 1を創刊予定。

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